先日、ぎっくり腰になりつつも、無事○○歳の誕生日を迎えました。年齢の部分にモザイク?が掛かっていてよく見えないようであれば、どうぞそっとそのまま受け入れてください。どうかお願いします。
親に「つい最近までは赤ん坊だった」と言われ、そこまではいかなくとも(覚えてないし)、社会人になってからも意外とそれなりの月日が経ったな~としみじみ思いました。まだまだひよっこなのですが、それでも私自身の中が自分で感じる”熟成度”と実際の年月が合っていないように思えます。
特にこの約1年半においては、独立したということもあり、様々なことを感じ、思い、体験しました。この一年半を一言で表すならば、「自分の過去と真摯に向き合うよう努め、削ぎ落とした」時期だったように思えます。
独立は、忙しくがむしゃらに働いていた日々から一旦解放されたことにより、会社勤めをしていた時にたくさんの方へ迷惑をかけ、それを無理矢理力技でねじ伏せて前に進んでしまっていたなという反省から始まったような気がします。そして同じ過ちを繰り返さないようにと自分の中で反省をしながら、目の前のことに向き合い続けた一年半でした。とにかく、大きさよりも、丁寧さを心がけました。
過ちというのは、取り戻せないこともあります。「ごめんなさい」で全てが済む訳ではない。かといって、そこで呆然として燃え尽きて立ち止まる訳にはいかないのだから、取り戻せない過ちに関してもきちんと認め、もう繰り返さない努力をするしかないのだと思ってやってきました。自分の嫌な部分を見るというのは、とても怖い。今でも思い出すと嫌な気持ちになるし、手が震えることもある。でも時が経つに連れて、徐々にだけど客観的に、「これは状況的に仕方がなかった」とか「ここはこうすべきではなかった」と冷静に一歩引いて反省が出来るようになって来た気がします。それを基に日々の業務の中で、「あの時はああしてしまった。では、今回はどうするべきか。」という判断の繰り返しをしてきました。こんなことを書くとどこかからともなく「おいおい、また偉そうなことをいって、実際はまだまだ・・」と突っ込みが入ってきそうですが、もちろんまだ完璧で明快で美しい判断が出来るようになったとは思っていません。ただ、これを数年繰り返せば、もう1段階上へ登れるのかなという感触は出てきました。直感を磨くというか、”におい”を感じ、物事を一つの枠組みとしてより多くの側面で捉えられるようになることが目標です。
反省と反省、そしてさらに反省を基に、自分なりの判断を繰り返しながら同時に行ったのは、”削ぎ落とし”です。SNSも非常に盛んだし、世の中は”情報”に溢れている。人との素晴らしい出逢いもたくさんある。だから、その情報に追いつくことことが大切なのだと思っていました。でも、自分で立ち上がってなにかを創造しようと思うようになり重い腰を上げたことにより、創造において大切なことは、色々なものを捨てることにあるのではないかと思うようになりました。お金が潤沢にあるわけでもない。(というか、まったくない。)なにか特別なコネクションやアイデアがあるわけでもない。(悲しいほどに皆無。)そういった、言わば『漢 山下、裸一貫』状態で立っている状態においては、「外からの情報」よりも言わば「自分の内から湧き出る声」の方がとても重要なのではないかと感じることが多く有りました。というよりも、「自分の内から湧き出る声」無しに「外からの有益な情報」を得たとしても、それを生かす方向性が分からないんですよね。だから今の段階においては、まずは自分の生活を成り立たせている実際的な業務に没頭し、空いた時間で自分を削ぎ落とす作業をしました。村上春樹は小説を書く行為を、
小説家の基本は物語を作ることです。そして物語を語るというのは、言い換えれば、意識の下部に自ら下っていくことです。(中略)
作家はその地下の暗闇の中から自分に必要なものをーつまり小説にとって必要な養分ですー見つけ、それを手に意識の上部領域に戻ってきます。そしてそれを文章という、形と意味を持つものに転換していきます。
-村上春樹「職業としての小説家」より
というように述べていますが、なんとなく、いま私が行っている作業もこれに近い気がしています。いやいや、まさか村上春樹さんと同等なことが出来るっていうわけではないですよ。北か南かの方向でいうと近いんじゃないかと勝手に感じているだけです。勝手な妄想です。
とはいえ、まだまだ、「うーん、どこ掘れば良いんだこりゃ」と途方に暮れている段階なのですが、「付け加えていくのではなく、削ぎ落とすことが必要なのではないか」という大まかな方向性を見つけた気がします。これからがスタートなので、まだまだまだまだ時間が掛かりそうですが・・。
スピート的にはすごくゆっくりですし、スタート地点に立った立っていないかという状況なので、周りから見ればきっと何をやっているか、どこを目指しているか分からないですし、一貫性が無いようにも思われてしまうかもしれません。きっと時として、とんちんかんに見えてイライラするでしょう。でも、私にとってとても重要なことは、今の言わば底辺の状態において、数は少ないかもしれないけれども、応援をしてくださる方がいるということです。まだ形もない、実績もない、可能性も分からない、出産で例えるならば「妊婦さんのお腹の中をエコーで見ても、豆粒で見えるか見えないかぐらいの胎児」の状態であるにも関わらず、応援して、時に励まし、時に叱咤激励してくださり、時に叱咤(だけ)してくれる方がいるということです。自分の中で可能な限り練り上げたものを、「大丈夫かな?仕方あるまい。目をつぶって、”テイヤー!」と思い切って中身をさらけ出してみると、サントリー創業者の鳥井さんの「やってみなはれ!」的な反応をしてくださる人というがいるということです。(だいたいが、その後転ぶのですが、くすっと笑って手を差し伸べてくださります。)
一人になってみて痛感しているのは、なんの確証や光もないのに応援してもらえることと、目に見える産物がある状態での応援してもらえるというのとは全く重みが違います。こんな無謀で自分勝手で、我が道を進んでいるので、「全ての人に応援してもらいたい」なんて虫のいい話は出来ないのは分かっています。でもだからこそ、今この時点で応援してくださったり、心配してくださったり、叱ってくださったり、つまり「無関心ではない」状態の人がいるというのは大変嬉しいことだなと思うのです。まだまだ自分で判断ができるほど熟成していないので、そういった人たちにどういう形かでも、「背中を押してもらえる」ような選択をしていくことで、少しずつでも自分の中の思いを何らかの”カタチ”にして、世に出していけるよう努めて働き続けたいと思っています。